笑顔を創りたいWebディレクターの日常

某事業会社勤務のWebディレクター。つまり「なかのひと」やってます。Web業界からひょんなことで専門学校の先生に。そしてまたWeb現場に戻ったWebディレクターのブログ。

「"ありがとう"はマナー」は成長を止める。

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こんばんちは、スーパー太っちょWebディレクターです。
スーパーは太っちょにかかります。

まだETCがこんなに普及する前、料金所のおじさんに「ごちそうさまです!」と言って走り出し、おじさんの「?」を置き去りにするそれがワテクシ。

基本的にお店のサービスにはお礼を言う、それがワテクシでございます。

さて、先日これを読んで。

togetter.com

いい話なーと思いつつ、様々なコメント見てると、ちょっと「コミュニケーションを考える」という観点で書いておきたいことがあるなと。

「ありがたいと思ったからそう言うだけ」

という意見もあれば

「人生が豊かになるからだ」

という意見もあったり

「サービスには(ありがとうと伝える)マナーで返さなきゃダメ」

っていうのもあったり。*1

どれも良いというか、ありがとうを言う理由なんて人それぞれで良くて、どれが間違ってるだなんて言うつもりはないんよ。ないんだが、僕個人の考え方とは違うなぁと。

今日はWebディレクターが考える「言葉の扱い方」について。

そんなわけで、うぇぶぎょうかいのむめいでぃれくたーのお時間です。

■目次

 



 

たとえばこんな質問をされたとして

「私の何について、ありがとうと言ってくれたのですか?」

 

こう聞かれた時にね、苦しいんじゃないかなと、思うわけです。

 

「それがマナーだと思ってるんで」
って、つまりそれは「相手がどうこうじゃなくて、自分がマナーだと思ってるんでそうしました」ということよね。
それって、相手に「あ、とくに私がどうこうってわけじゃないんだ。この人のポリシーっていうだけで・・・」って思われちゃうんじゃないかなーとか、僕は思ってしまう。


「それが自分の人生を充実させるから」
ってのは、もっと厳しいと思っていて。
相手に「ああ、この人は自分の何かにありがたいと思ったわけじゃなくて、自分が充実するためだけに言ったんだな」と思われるかも、しれない。

 

「ありがたいと思ったからそう言うだけ」
ってのはもう、質問に答える気がない人の返答なので ・・・。*2

 

と、こうやって「ありがとう」という本来お礼を伝えるコミュニケーションですら、ややもすると相手を傷つけることになりかねない、と僕は思うわけですよ。

まあ、そうそう聞き返されないので傷つけることはないんだけど、それは「(真意を確認されなかったから)結果的に傷つけなかった」だけで。

 

じゃあおまえは何に対してお礼を言ってるんだよ?

と、なりますわいね。

僕がいつも「ありがとう」とか「ごちそうさま」というのは、「それらがすべて当たり前だと思ってないから」であります。

  • そこに店舗を構えて営業してくれていること
  • 僕を客として受け入れてくれたこと
  • その店員さんがちゃんとお仕事してくれていること

どれも当たり前じゃないと思っていて。本来は。

 

■そこに店舗を構えて営業してくれていること

もう少し正確に言うと

「そこで、お金を払ったら美味しいものを出すサービスをしてくれていること」

 になるかしら。

チェーン店とかだとそこかしこに店舗があるので、ついつい当たり前に思っちゃうんだけども。

でもそこにお店を構えていてくれるからこそ、僕はそのお店でご飯が食べれるわけです。土地代も価格には含まれているけど「その地で店舗を構えよう」と思ったのは紛れもなくその会社や店長さんの「意志」なわけで、それは当たり前ではないし、価格に含まれているわけでもなく。

なにがしかの勝算があって、僕のお家の近所にお店をつくったんだろう。だから僕のためではないんだけど、一方で僕は「ここに来てくれ」とお願いしたわけでも、お金を払ったわけでもないんだわいねぇ。僕が払ったのはお店に入ったあとの「美味しいものを出してください」という注文(+その前後)に対してだけで。

 

■僕を客として受け入れてくれたこと

また、日本のサービスで客を選ぶものはだいぶ少ないけど、僕みたいな太ったおっさんでも拒否することなく受け入れてくれるのも当たり前ではないと思ってて。お店にも拒否する権利はある(それが差別にならない限り)。

まあ、太ったおっさんでどうというのはさすがにないだろうけど、ドレスコードがあるお店や、決まったマナーを守らないと入店できない店というのはある。でもそんなことめんどくさい、決して見栄えのよくないおっさんの僕でも受け入れてくれる。まあまあというかだいぶ普通なんだけど、でもやっぱり「あたりまえ」ではないわけでして。

 

この2つの「当たり前じゃない」は商品売買が「契約」であることに立ち戻るとわかりやすい。

受発注にせよ業務提携にせよ、お互いがWin-Winの話なのだから、本来はお礼をする必要はない。しかし業務提携などは、「お互いがお互いを選び、認めた」からこそできるわけで、どこの誰でも良いわけじゃない。だから握手をしてありがとうというわけですやね。

当たり前じゃなく、そして「選んでくれたこと」自体は契約や金銭に含まれているわけではないから。

 

■その店員さんがちゃんとお仕事してくれていること

これも結構、僕には重要な考え方で。

「店員さんがちゃんと仕事をしてくれる」って当たり前じゃないと思っていて。

お金払ってるんだから一見すると当たり前に見えるけど、店員さんがちゃんと仕事をする義務は会社に対して発生してるだけで、客の僕に対してじゃない。

もちろん、店員さんがちゃんと仕事してくれなくて、僕がお金払ったのにご飯が食べれなかったら、僕には怒る権利がある。そして償いや補填をを求める権利もある。けれどもそれは運営会社に対してであって、店員さん本人ではない。僕がお金を払うことによって売買契約を結んだのはお店=運営企業であり、その店員さんと契約したわけじゃないので。

たとえば、店員さんが労働環境に不満があって、ちゃんと働いてくれないかもしれない。結果として、僕はあとで企業に賠償を求めることはできたとしても、それだけ。その瞬間、お店にいる間はひどい目に遭うことを避けられない。そんなことが起きるかもしれんのですよ。

だから「ちゃんとお仕事してくれてありがとう」と店員さんに言いたいんですね。決して、当たり前じゃないから。

 

はい、僕がお店や店員さんにお礼をいう理由3つでした。
これなら、

「私の何について、ありがとうと言ってくれたのですか?」

と聞かれても何にも問題はなくて。

すべてきちんと答えられて、本来の目的も達成できる。

 

と言っても「他人に説明するために考えろ」ってんじゃなくて

「本来の目的も達成できる」と↑で書いたけど、目的とはなんぞや?と。

それは「他人に後から説明できるように」ではないはずで。

お礼を、言葉を、相手に向かって発するということは「相手に何かを伝える」が目的のはずだと思うんですよ。だって相手に伝える必要がないなら、発する必要もないのだから。

「ありがとう」も「ごめんなさい」も「楽しかったよ」も、相手に何かを伝えたいがために発するわけで、なんなら言葉はその器に過ぎない。熟年夫婦の「バカッ」もそれで愛情が伝わればそれでいいのだろう、と。

だが、だからこそ「この想いを相手に伝えるために、その言葉は"器"として適切なのか」を常に考えることが重要だと思うわけです。それを繰り返すからこそ「言葉の使い方」がうまくなっていくから。

そして、たくさんの人と一緒に生きていくこの「社会」というものにおいて、人として成熟するとは「適切なコミュニケーションを取れるようになること」だとも思っていて。

 

大人とは、肉体だけじゃなくて

子供は、考えもせずに言葉を発するからこそ子供なんだと思うんだけども。

だから、良い大人になっても適切な表現や理解ができないままの人は、身体は大人になっていても精神は子供のままじゃない?とすら思っちゃったりする。あいつは悪者だ!と決めつけて、よく中身を見もしないで人を叩いたりね。

そう、だから、精神的に大人になるというのは「コミュニケーションを考え続ける」だと僕は捉えていて。

だとするならば「自分はなぜ、何に対して”ありがとう”と表現したのか」はちゃんと考えた方がいいと思うし、それこそが「コミュケーションを考える第一歩」だと思うんよね。

そりゃ、「自らがなぜそれを発したのか」を考えるのが一番最初だろうし、それさえできない人が「相手とのコミュニケーション」なんてさらに複雑怪奇なもの、考えられるはずもないし。

 

「ありがとうはマナー」がダメなわけじゃなくて

「マナー」でも良いんですよ。

しかし、「マナー」にも本来はその先に「目的」があったはずで。

電車でお年寄りに席をゆずるのは「マナー」だけど、それは「長く生きてくれたお年寄りを大事にしたい」という想いがあり、その集合体が「マナー」になってるわけで。

そこまで考えていれば

「これはマナーだと思っているんで」

「やっぱり、自分はお年寄りは大事にしたいと思いますから」

「だからこのマナーを守りたいと思うんです」

と言えるはずですやね。 

いや「そこまで考えてなきゃダメ」と言いたいわけじゃないんよ。「マナーだから」という一点のみでそれを守ってる人を責めたいわけじゃない。そもそも自主的にマナーを守ってる時点でだいぶ素晴らしい

また、別の観点で言っても「そこまで深くは考えられてないけど、とりあえずマナー守っておけば問題ない」という思考もぜんぜん間違ってない。なんでもかんでも、いつでも深くどこまでも考えるなんて疲れるし、考えないときがあってもいい。なんなら僕だって無思考でぼーっとやってるときはある。

ただ、それを自覚した方が良いとは思うんよ。

「いま、自分は、深く考えずマナーをとりあえず守ろうとしている」

ということは。

考えてないことは事実で、すべてにおいて考えることをやめると成長が止まるので。

 

で、とくにね。

これを見ているディレクターとかプロデューサーとかマーケターとか。

いや、人とコミュニケーションを取ることで仕事が成り立ってるすべての人

それはやっぱり考えなきゃいかんと思うのですよ。

「ありがとうっていうのはマナーだから」で止まってたら、そのディレクターはそこで成長が止まる。だって、Webディレクターっていろんな人と言葉を中心にやりとりしてプロジェクトを進める人だもの。つまり「言葉」は自分の商売道具なわけですよ。その人が「ありがとうっていうのはマナーだから」で思考が止まるなんて、商売道具をそのへんに転がしてまったく磨いてないのと同じで。

だから、とくにWebディレクターは考えよう。

たとえば「ありがとう」について。

自分は、この人の、何にありがたみを感じてその言葉を発したのか。
それを考えることが大事で。それがコミュニケーションを考えるということであり、「自分の発言に責任を持つ」ということだと思うんですやね。

 

だってほら、「自分の発言に責任を持てないWebディレクター」なんて、ひどいもんでしょ? 

 

*1:togetterでまとめられてるマンガより。

*2:ブクマとコメントは、誰かに返答するつもりで書いたんじゃないと思うけど。