こんばんちは、スーパー太っちょWebディレクターです。
スーパーは太っちょにかかります。
さて、今日はとてもひさしぶりにUXの話なのですけど、あのー、なんでなんですかね?
なんで「UX」関連の人はあんなに怖いのか
いや、たぶんWebディレクターも怖い
あとマーケティング界隈の人も怖い気がする
みんな怖い(´ω`)オコラナイデ・・・
いや、とりあえずUXの話に戻しましょう。
なんでかこう、やっぱり怖い。
それは言い方を変えるとUXってUX悪いよねと思うわけですよ。
「UX(デザイン)」のUX悪いよねっていう、ねぇ。
人に優しくありたいUXデザインが、人を寄せ付けない感じ。
でもね、なんとなく理由はわかるんですよ。
というかもう、必然とすら言える。
それはね、ちゃんと理由があるんですよ。
今日はそんなUX道(謎)の話。
そんなわけで、うぇぶぎょうかいのむめいでぃれくたーのお時間です。
■目次
- そのまえにお前は誰なんだ(知ってる人は読み飛ばしてOK)
- UXデザインを追い求めていると必ず通る道
- なぜ性格が悪くなるのか
- 僕も、性格が悪くなった
- どうしたら改善できるか(別に改善せんでも良いけど)
- まとめ:これはUXの話だけじゃない
そのまえにお前は誰なんだ(知ってる人は読み飛ばしてOK)
誰かってまあ、とおりすがりのWebディレクターなんですけども。
と、加えて、まあそれなりにUXデザイン的なことを追い求めてきた人であります。
たとえばこんなブログ記事がちょっとバズりましたね。
まあ、記事というか実態はスライドですが。
あとは、UI設計としては画面構成案ワイヤーフレームとか数千ページぐらい書いてきましたので、こういう記事とか。
というね、自慢をしたいんじゃなくて自己紹介です。
そして、そういう、それなりに良いUXを追い求めてきたやつが書いてるよっていうそういう話です。
では、そいつが語る「UXをつきつめると一度性格が悪くなる」理由とはなんぞや、というね。
UXデザインを追い求めていると必ず通る道
そう、通る。
それはなにか。
「UXとは何か、良いUXをつくるにはどうしたらいいか」
これです。
いやうそです(ひどい)
うそはよくない。よくないUX。ダカラヤメル。本当のこと書くダカラ。
↑で取り上げた「UX設計の第一歩」におかれましてはですね、こういうスライドを入れておるわけです。誰が?ワイが。
そう、UXデザイン学びたいマンにとても多いんだけど、学ぶことが目的化してたりして。「UXデザインやってるオレかっこいい」みたいなやーつが多いのだけど、実際に「良いUX」をつくるには、UXデザイン手法をやったから必ずできるものではなく。ぶっちゃけ、単純に(手法以前に)その能力が高いやつがパパッと作った方が良いものができたりする。
いや、それでもUXデザイン手法を身につければ、パッと考える能力が届かなくても、その手法によって(やらないよりは)良いアウトプットを出せることはある。が、今度は、その手法を実践すること自体に高い人的もしくは時間的コストがかかる。平たくいうと金がかかる。
では、どうするか。
日々、意識して考えなければならんわけです。
UXデザイン手法を身につけたからこそ、毎日が観察で、毎日が思考の場なのですよ。UXデザインにおいて最も大事なのは、手法をどこかのプロジェクトで使うことではなく、その根底にある考え方や意識を体内に取り込むことで、毎日を研鑽の場にすること。
それが、僕が思う「UXデザイン手法の在り方」です。
それを、とても平易に表すと同じスライドの最後でこうなるわけですけどね。
日々の意識こそ大事である、と。
なぜ性格が悪くなるのか
これは、実はWebディレクターとしても同じ話なんですけどね。
そういうことなんですよ(何がだ)
Webディレクターになったころ、よく言われたんですわ。
「お前らは、ユーザー体験が足りない」
どういうことか?
Webディレクターとは、良いWebサイトをつくるためのプロジェクトを推進する人であり、ときにはそのなかで設計を担当する人にもなるわけですねぇ。
つまりこういことです。
- WebディレクターとはWebのプロであろう
- Webのプロが、なぜ世間のWebを体験しないのだ
- そんなんで、クライアントに「これがWebでの正しいサービスです」と言えるのか(さして知らんくせに)
- Webをたくさんユーザーとして体験すべきだ
- ユーザーとして観察すべきだ
- そしてWebだけにとどまるな。良いサービスとはWebに限ったものではないし、リアルとWebはつながっているものである
- 世間の良いサービス、悪いサービスを体験し、観察しろ
- それでこそ、良いおもてなしができる本当に良いWebサイトがつくれる
カンの良い人はもうお気づきでしょう。
これこそ、UXの話そのものですやね。
そう、僕が「亀仙流」と表現したことも、根底にあるのはこれと同じ話です。
でね、これ、実践すると性格が悪くなるんですよ。
だってそりゃ、金払っていようがいまいが、他人の「サービス(≒振る舞い)」を「観察」して「良し悪し」を分析するわけですよ。
もうこの時点で性格が悪いwww
僕も、性格が悪くなった
具体論を出しましょう。
そう、僕も明らかに性格が悪くなった時期がありました。
今も悪いけどね
まあ少なくとも、当社比におきましてですね、圧倒的に悪かった時期があるわけですね。
ある日、僕はとあるレストランチェーンのお店に行きました。
そのお店はですね、基本的にライスやサラダ、カレーなどのバイキングがついてくる形式のお店だったのですよ。
ありますやね、とにかくどのメニューにも基本セットとしてバイキングがついておりますよという、そういうやつ。ときどきアイスクリーム食べ放題というオプションがある店があって、あれは困りますね。
え、そうなん、ギャル曽根もアイスを食うというし、そうか、食べ放題にはアイスか、そういうことかと。なるほど、そういうことかと。いっぱい食べてくれる人には、アイスバイキングもつけるとええやでという、そういう心配りやな?と。
だまされないで。
だいじょーぶ。もうね、じゅうぶん。ハンバーグかステーキかとんかつかわからんけど、それらと基本バイキング食ったら、凡人はアイスなんぞ食べれませんから。
男子高校生のエロに対する探究心と同様に、空腹時の食に対する判断なんぞ決して信じてはいけない。ガバガバだから。判断が。そもそもステーキだって食いきれるかあやしいのに、アイスを有料オプションでつけちゃうとか、もうほんとやめましょう。だまされないで。
おい、話が逸れた。
僕が当時行ったそのとあるお店はですね、なんと、かの有名なアイスバイキングとは違い、"無料で"ドリンクバーもついてくるお店だったのです。
すげー。
やるじゃん。
しかしとある日、そのお店に行った時、中年女性の店員さんは僕にこう言いました。
「当店へのご来店ははじめてでしょうか?」
これね、毎回聞かれるんですよ。
なにせ、特殊ですからね。何頼んでも基本バイキングがセットついてくるお店だから。
なので、僕はこう答えたわけですね。
「いえ、はじめてではないですね」
うん。だってはじめてじゃないから。好きだからこのお店。デブだからね、そうだねってやかましいわ。
そうしたら、中年女性のその店員さんは次にこう言ったんですよ。
「いつもご来店、ありがとうございます。当店のメニューなんですが、このたび、ドリンクバーが別料金となりました。よろしくお願いします」
はぁ?って思いました。
おいおい、ドリンクバーが別料金て、え?ってことはメニューそれぞれの料金はそのぶんだけ安くなってるの?と思って見たけど、前に来た時のまま。え、じゃあそれ、単純に値上げじゃん。ドリンクバー代ぶんだけ値上げじゃん。
はぁ?
と。
なんて話をリアルで友人にすると、だいたいこう言われますね。
「あー、それはひどいねー。たしかにー。そんなサクッと値上げされてもね」
うんうん
そうね
うん
僕はね
そんなことは思ってないのです。
あのですね、そりゃ経営的に厳しいのかもしれないし、そもそも普通はだいたいドリンクバーというものは別料金でして、カラオケだってそうなのだし。さらにいえば、ぶっちゃけたかだか200円とか300円だし、こっちも毎日来るわけじゃなし、そんなに痛手でもないわけですよ。
企業の方針転換、サービス内容の改定なんぞはそりゃしょうがないわけで、どんなサービスにも起き得るし、あとは僕がそれでも来たいかどうかだけで、別に怒ることではない。
僕が違和感を持ったのは、そこじゃないのです。
「当店へのご来店ははじめてでしょうか?」
これなんですよ。
さらにいえば、そのつぎのこれ。
「いつもご来店、ありがとうございます。
つまりですね、この店員さんは、僕が「リピーター」だとわざわざ確認しているわけですよ。リピーターとはつまり、何かしらを気に入って再びお店に訪れた人なわけです。
その、わざわざ自分で「リピーター」だと確認した相手に対して、謝罪一つなく「ドリンクバーが別料金になりました」と言ってるわけです。言い換えれば「前回来店時より値上がりました」と言ってるわけです。
====追記====
ちょっとここわかりづらかったですね。
「値上げを伝えるな」ってことではないのです。
値上げという、お客さんにとってはまったく嬉しくないことを伝えなければならない時だからこそ、そしてそれをいつも来店してくれてるお客さんだからこそ、伝え方があると思う、という話です。
要するにこういうこと↓ですね。
どうやって・・・?あ、お客さんにですね。たしかに書いてない(笑)
— toksato|むめいなうぇぶディレクター (@toksato) 2022年2月19日
いや、まあ伝えるしかないんですけど、僕なら謝罪の一言ぐらい挟むかなぁと思うんですよね。「いつもご来店ありがとうございます。お客さま、弊社都合で大変申し訳ないのですがこのたび〜」とか。
初めて来店したわけじゃない、いつもお店を楽しんでくれているお客さんだからこそ、より丁寧に、「ごめんなさいね〜」っていう一言を挟むのが大事だと思うんですよね。基本的には。
それを、謝罪一つもなく「値上げしましたから」で終わるっていうのはなぁ・・・っていう話です。
===追記終わり===
ええ、
ごめんなさいね、
正直に言いますね
「アホな接客だなぁ」
と思ってしまいました。
普通は、単純に値上がりしたことに反発するわけですよ。普通はってなんだよって話ですけども。でも、そこは通りすごして、店員さんの細かい一言に対して観察分析して、さらに「バカな人だなぁ」とか思ってしまうわけです。
ああなんと性格の悪いことか!!!
お恥ずかしい。
おかあさんごめんなさい(あなたのせいではありませんよ)
うん謝っておこう。謝っておいた。
ただ、観察するとはこういうことなんですよ。
相手が誰で、何を求めていて、どのタイミングで、何を発し、何を提供すべきなのか。体験の入り口から出口までのそのすべてで、良いタイミングで、良い内容を、良いサイズで出す必要があるわけです。
ああ、ここで椅子を引いてくれるんだ、
ああ、ここでこの言葉をかけてくれるっていいな、
そうそう、ここでこれ出してくれると助かるんだ。
すべてはこれを自らが生み出すために、観察をするわけですから。すると、自然とそうなるわけです。「ええ?、このタイミングで、こういうお客さんに、それ言っちゃうんだ」と。細かい細かーい目線で人を観察し、値踏みをして、こうすればいいのにとずーっと考えている。性格悪いなーw
というと、UXを追い求めるものは性格が悪くなりっぱなしみたいになりますやね。
僕は、そうじゃないと思ってます。
どうしたら改善できるか(別に改善せんでも良いけど)
ここからは、僕がそこからどうやって脱したか、その対処法を書きますわいね。
1.コミュニケーションの"レイヤー"を意識する
実は、僕はこの記事で一つ嘘をついておりまして。
前述の店員さんに、僕は「あららぁ」とは思ったものの、実際にクレームは出していません。一言も何も言ってない。
これこそ、UXデザイン、いや、コミュニケーションをデザインする人はみんな意識すべきだと思うんですけど、「不快に思うこと」と「それを本人に伝えること」はぜんぜん違う話なんですよ。
すごく簡単な話をしましょうか。
あるラーメン屋に行って、そのラーメンが不味かったとして。それを店主に伝えるかどうかと、不味いと感じたかどうかは、全く別の話ですよね?
誰だって不味いと思うことはあるはずで、そしてそれは割と多くの人にあるはずで。しかしその全ての人が、わざわざ店主のオヤジさんに言わないでしょう。「不味いんですけど」って。
意外と、これを忘れちゃうんですよね。
- 不快に思うこと
- 不快に思ったことを、内輪だけに表現(≒投稿)すること
- 不快に思ったことを、"本人が見える"場所で表現すること
- 不快に思ったことを、本人に直接伝えること
これは、コミュニケーションとしては全然違うレイヤーの話なんですよ。そして、UXデザインをする者ならば、ちゃんと目的を持ってこれを使い分けるべきと思うのですよねぇ。なぜなら、そのコミュニケーションが相手のUXになるから。
"1"の「不快に思う」だけならもはや自分以外の誰にもバレないです。ぶっちゃけ、「UX力を高めるために日々観察する」ことはこれだけでほぼ達成できるんですよね。
"2"の「内輪だけに表現すること」でも、本人が見ることは(ほぼ)防げます。そしてこれはこれで意味があって、「表現すること」によって観察したことを分析できるんですよね。簡単にいえば観察=インプットであり、表現=アウトプットなので。
"3"と"4"も似ているように見えて実は全然ちがう。
これを読んでる皆さんにもありませんか?自分の秘密、そうね、たとえばSNSの裏アカウントが会社の人にバレていたとして。
でも、
「あれ、◯◯さんの裏アカらしいよ!」
と
「これ、あなたの裏アカウントなんでしょ?」
ではぜんぜん違って、ぶっちゃけみんな、前者で留めてほしいと思うでしょう?
前者が"3"で後者が"4"なんですよ。
大きな違いは"4"の「不快に思ったことを、本人に直接伝えること」は、本人がリアクションをしなきゃいけなくなるんですよね。"3"なら(本当はバレていても)バレてないテイでお互い過ごせるのに、"4"だとそうはいかない。
UXを意識するならばそれこそ、この4つのレイヤーを考え、何を目的にコミュニケーションを発するのかを定めて話をすべきだと思うわけです。それがUXを考えるであり、そして、ひとつの"やさしさ"ですから。
みんながみんな、本音を相手に伝えてるわけじゃないし、そもそもすべて伝えることがやさしさでもないじゃないですか。誰にだって欠点はあって、でも、たとえば大切な友達や同僚の、欠点も含めて好きでも、欠点は欠点であって。つまり「目を瞑る」ということであり、それはやっぱりひとつの"やさしさ"で。
とはいえ、愚痴はあるわけですよね。仲の良い、大好きな友達なんだけど、うーんでもここはやっぱりねぇ、困っちゃうよねぇ、みたいな。
その愚痴は「言わない」か「本人には絶対に見えないようにする」が優しさだと思うんですよ。トータルでは好きなんだから。大切な友達なんだから。
それを、「大切な友達だよ」と言いながら、相手の気持ちを考えずに"3"や"4"(つまり本人に伝わる)の表現をしちゃうというのは、ダメですよねぇ。
そしてこれらを意識して、少なくとも"1"か"2"までにとどめておけば、性格が悪くなっても表には出ないし、そもそも考えてる時点で相手のことを慮ってるので、そう性格が悪くならないんですよね。
※ちなみに余談ですが、某温度シー的な指輪で炎上したあれは、この1〜4を誤ったから炎上したんだと思っています。簡単に言うと2までにしておけば良いのを、プレゼントしてくれた本人には直接伝えてないのに3をやるという「相手の心を無視した」コミュニケーションだったから。
2.ベクトルをすべて自分に向ける
気づいた人も多いと思うけど「コミュニケーションの"レイヤー"を意識する」の1〜4は、実は性格が良くなってるわけじゃない(笑)いや、意識すればそのうち良くなると思いますけどね。でも、レイヤーを意識すること自体は、ぶっちゃけ「悪さを隠しているだけ」で。
そのとき、この意識があればかなり変わると僕は思っている。
たとえば前述の中年女性店員がいたとして。いたとしてっていうか、いたんだけど。皆さんの前にね、いたとしてってことね!
その(おバカな)店員さんがいたとしても、僕は自分のために「体験して観察して分析して」いるわけですよ。そう、実は関係ないのです。その店員さんがおバカだろうが超優秀だろうが、僕が成長するためにやっていることなのだから、その店員さんが良いか悪いかなんてのは僕が僕のために判断していることであって、相手に怒ることじゃないんですよ。だってそうでしょ?自分の研鑽のために観察をしているのだから。
こう考えると、極端な話、犯罪者ですらスルーできるようになります(笑)だって、僕に危害がないのなら関係ないですからね。法律を犯していたとして、僕はあまりそういう人は好きではないけど、そんなものは程度問題であり、そして僕の好き嫌いでしかない。さらにいえば、犯罪をおかした人を捕まえるのは警察の仕事だし、裁くのは裁判所の仕事で、僕にはその権利がないし。
仮にそこにルールを破っている人がいたとして、究極的には「ああ、アカンことしてるなぁ」「僕はそうならないようにしよう」と、自分にベクトルを向ければ、特に腹も立たないんですよね。
腹が立たなければ当然、暴言を吐くこともないし、観察分析してもそれで性格悪く罵ったりはしなくなるんですよね。なぜなら、腹をたてることも、相手を罵ることも、自分の成長とはまったく関係がないから。
そもそもね、みんな、自分のために生きてると思うんですよ。いや、そりゃ家族とか恋人とかいるだろうけど、「その人たちの幸せな笑顔が見たい」というのも、自分のためであって。
その目的のために、つまり自分のために生きるならば、そしてそもそもUX力を高めることだって自分のためでしかないわけで。そうするとそれは自分にベクトルを向けることになると思うわけですよ。
相手が悪いかどうかが大事じゃなくなるので。
3.幸せとは何かを考える
↑の2とラストにつながる話なんだけど(いや、だから3.なんだけどw)、「そもそもね、みんな、自分のために生きてると思うんですよ」っていうのは、つまり「自分の幸せとは何か」なわけですよね。
人それぞれ幸せのカタチは違って、それで良くて、そしてみんなそのために生きてるはずで。
とすれば、たとえばですね。
何度も出てきていただいている、中年女性店員さんですね。
彼女は、どうだろうなぁ、見た感じ中学生か高校生のお子さんがいそうな雰囲気の人でした。
そんな彼女の、幸せとはなんでしょうね。
(´ε`;)ウーン…
わからないけど、お子さんがいたらきっとお子さんのことを大事にしたいんでしょうね。
だとすると、じゃあそのレストランチェーンで働きまくって、成果も出して、エリアマネージャーになったり、さらに昇進して本社で朝から晩まで働くのが幸せだろうか?
違うでしょうね。
きっと、お子さんとの時間の方が大切でしょう。きっとね。
そんな彼女が、では、たかだかチェーン店のパートで、細かいコミュニケーションまで完璧な対応ができるようになりたいか、なる必要があるか。
必要ないですやね。
そう、仕事との向き合い方だって人それぞれで、僕がサービスを受けて、体験して、観察したその相手にだって人生があり、その人にとっては仕事なんて片手間で良いのかもしれない。
仮に自分が思う「おバカさんな接客」であったとしても、それが「悪」とは限らないのですよね。おバカさんな接客をあえてしているかもしれないし、わかってないのかもしれないけど、そんなことどうでも良くて。
人には、みんなそれぞれ幸せがあって、人生があって。
それはどんなカタチだって良くて。
UXを考える力をつけるというならば、相手に寄り添うことこそがそれだと思うし、であるならば、自分の狭い杓子定規な「良質なサービスはこれだよな」なんてもので縛る必要もないし、縛るべきでもなくて。
ただただ、観察すれば良いんですよね。
「ああ、ここでこんなこと言っちゃうのかあ」
「あんま良い接客だとは思わないなぁ」
「ふーん、そっか」
だけで。
いや、もう一歩踏み込めば
「でも、このおばちゃんにはそんなこと関係ないもんな」
「息子さんか、娘さんか、いるのかな。中高生かな?」
「おばちゃん、がんばってや。ウチの母ちゃんもがんばってたわ。ありがとうやで」
と、思えるはずで。
はい、だから、すみません。
実はここまでずっと例として出してきた「とあるチェーン店の中年女性店員さん」の話は、事実としては嘘じゃないけど、「僕が性格が悪かった時の話」としてはうそです。
例としてわかりやすかったので出しただけで、本当は腹も立ってませんでした。
うん。(なにがうんだw)
まとめ:これはUXの話だけじゃない
はい、ここまで読んでくれた人はもうわかってるだろうと思うけど、実はこれ、UXの話だけじゃないです。「Webディレクター」でも「マーケティング」でもそう変わらないと思います。
そしてだから僕は、UXもWebディレクションもそうだけど、いちいち怖くつっかかってくるような人は、その時点で「UXとかディレクションとか、わかってないんじゃないかなぁ」と思ってます。
「自分」を体験する、僕のディレクションを"受ける"人は、怖い人と一緒になんかいたくないだろうから。
人にやさしく、ゲラゲラ笑って生きたいよね。
みんなと。
ちなみに。
これね、昨今の芸能人や炎上した人や、犯罪を犯してしまった人への誹謗中傷にも、同じことが言えると思ってますよ。
やめたいですやね。
それが芸能人相手でも。
だって、彼らも同じ人間ですからね。