笑顔を創りたいWebディレクターの日常

某事業会社勤務のWebディレクター。つまり「なかのひと」やってます。Web業界からひょんなことで専門学校の先生に。そしてまたWeb現場に戻ったWebディレクターのブログ。

「常に○○を意識することが大事だぞ、と言いながら自分はできてないオジサン」はなぜ生まれるのか。

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「初心を忘れないことが大事だ」とか若者にいうオジサンです。しかしその割には社内でふんぞり返って横柄な態度をしがちなオジサン。

だいたいね、常に初心を忘れない人は「常に初心を忘れないことが大事だぞ」なんて口に出さないわけですよ。それを目下の者に言う時点で初心わすれてるから。

 

あれは、たぶん「躾」が悪かったんですよ。だからああいう人に育つ。

 

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そんなわけで、うぇぶぎょうかいのむめいでぃれくたーのお時間です。

 



 

なぜか、ああいうオジサンには理不尽な人も多いですね。不思議に思いつつ、改めて考えてみると「さもありなん」という感じもします。

「教育」とは「考え方を教える」ことではない

これは専門学校の教員経験が多分に影響されているんですが「教育」とは「教える」に加えて「育む」という字が入ってますよね。ここが重要だと思うんです。

どんな仕事にせよ「教える」ことはとても大事です。「勝手に盗め」とかいう人は問題外のクズで、たぶんその人には教えるだけの技術や知識がないだけです。それを(なぜか)かっこつけていうと「勝手に盗め」になる。

しかし、教えるだけでも足りないんですよね。

「常にユーザーのことを意識してサイトの設計をすることが大事」

こう言えば伝わるし、誰も否定しません。
まあ、これは普遍的過ぎますね。
こういう事を言うこともあります。

「ユーザーの行動、前後のタスクや文脈を意識して画面設計をすることが大事」

もう少し具体的になりましたね。
カスタマージャーニーでもUXフローでもなんでもいいんですが、そういうフレームワークや手法を使うとやりやすい。しかし、悲しいかなそれを教えたとしてもぜんぜんユーザーのことを意識できていない設計があがってきたりします。

こんなの、当たり前なんですけどね。

「教育」の泥臭い現実の話

考え方やフレームワーク(手法)を教えても、人間はだいたいできません。

「こう考えろ」なんてのは言っても頭で理解するだけで体現できるようにはならないんですよ。「ユーザーのことを考えて設計することが大事」と教えたところで、そんなもん当たり前のことだし、仮に本人に響いたとしても、はじめの一手だけ「ユーザーのこと考えてこうしました」っていうだけで他がおざなりになる

人間は忘れる生き物だから「ユーザーのことを考える」といっても、基本的には「ユーザーのことを考え"ながら"設計する」ことになるので、すぐに忘れる。

大事なのは「ユーザーのことを考えながら設計するのが大事だよな」という知識を与えることではなく、常にそれを忘れずに実践できる「意識」を持たせることなんですよね。

すると、教育の作業としては「おい、ここはなぜこうなる?」としつこく問い続けることであり、「いかにあなたがユーザーのことを考えられてないか」ということを自覚させる作業になるはず。

「教育」とは判断力を養うことであり、それは「考え方を教える」だけでなく「考えられてないことを伝える」ことだと思うんですね。

僕もそうたったけど、自分がいかに考えられてないかを何度もつきつけられるから「こんなんじゃダメだ、まだできてない、もっと考えなきゃ」と意識づけられたわけで。

それが「教えて」「育む」までがセットになった「教育」だと思うんですよね。
だから、大枠やポイントだけおさえておけば大丈夫なんてそんな楽ちんなことはないはずで、もし仮にそれで成長する人がいたら、それはその人がすごいだけ。それは教育ではない。「教えた」だけ。教えたら勝手に伸びただけ。

「意識づけ」という躾をされてこなかった「自分ではできてないオジサン」

「常に○○を意識することが大事たぞ、と言いながら自分はできてないオジサン」は、そういう躾をされてこなかったんだと思います。

そういうオジサンにとって、スキルを身に着ける、成長するというのは「知識を得る」「スキルを理解する」ことなんですよね。だから、実は何にも身についてない

よくいる「やたらたくさんビジネス書を読んでいるのに、その本に書かれていることがまるで身についてない管理職や経営者」というのも、たぶんこういうスタンスから生まれるんだと思います。

居酒屋にいって「お冷のグラスが綺麗じゃない店はサービスもそのレベルだ」と「俺はわかってる感」を出すオジサンは、そのくせ自分の仕事になると資料の細かいところで読む人のことを考えてない雑な資料を出したりするわけですが、それはたぶん「良い店、良いサービスを見分けるポイントはここだ!」とかいう本の受け売りなんでしょう。実は、その本の一番重要な内容は「だからあなたの仕事も、細部にこそこだわるべき」だったとしても

頭ではわかるんです。
「なるほど、その通りだ!これが大事だ!」と。
でも、それを理解することと体現することはもはや別の次元であるということがそういうオジサンにはわからない。

「常に○○を意識することが大事たぞ、と言いながら自分はできてないオジサン」にならないように気を付けよう

「意識」というのはつまり「行動の根底に根付くこと」を言うんだと思うんですね。意識が変われば行動が変わる、というのはそういうことなのだろうと。

これを若いころからしてこない人になると、もう30代40代になってからではなかなか身につかないと思います。謙虚さは40代からはなかなか身につかない。身に着けるタイミングがないし、失うタイミングの方が遥かに増えるし。

以前本当にいた人なんだけど、40代も半ばのそれはそれは大層な役職もついているオバサンが、一生懸命Excelでリストをつくってくれてたんですが、データをもらって唖然としました。見出し行にセル色もついてなければ、そもそも罫線も、書類の名前すら入ってない。プリンターから出力するとなんかよくわからない文字の羅列が出てくるというw

たぶん、印刷して使う、ということを考えられてないんです。
「印刷用と聞いてなかったから」という言い訳が出てきそうですが(実際にはつっこんでないです)、ちゃんと考えている人ならそれが「何がしかのリスト」である以上、「紙に出力して見るかもしれない」なんてことは容易に想像がつくし、もし誰かが紙で出力したものが、なんかの拍子に置き忘れられた時、あとから誰かが見て「これはなんの書類だ???」となるリスクを考えて、リスト名とか日付ぐらい入れるでしょう。

でも、こういうのはよほどの天才でない限り、その都度いわれないと身につかないんですよね。

僕も20代のころ、何度も何度も何度もつっこまれました。

「なにこれ、ぜんぜん考えられてないじゃん」
「ユーザーの心理を考えるなら、ここにこれがあるべきなんじゃないの?全然だめじゃん」
「toksatoくんはユーザーに寄り添うということがぜんぜんできてない」
「toksatoくんの資料は正しいとは思うけど、ぜんぜん面白くない」

うううう・・・・(泣)
つらたん・・・orz

でもね、優秀な先輩方がそうやって何度も何度もつっこんでくれたから、ああ、自分は足りない、ぜんぜん考えられてない、もっともっともっといつも考えないとダメだって思えるんですよね。

「ユーザー中心に考えるべきだ」なんて誰でも言えるし、だれも否定しないんです。
でも、実際にそれを実践するのはとても難しい。画面設計ひとつとっても、細かいところにこそそれが表れる。それができてなかったとき、一つのボタンの配置、ラべリングの細かい細かい細かい・・・、本当に細かいところまでつっこんで「躾」をしてくれたから、今の僕があるんだと思います。

そのうち、脳内で勝手に先輩方がしゃべりだして「むむ・・・この資料、あの人ならこう突っ込んできそうだ!あぶない!修正!」となったりするんですけどw、僕はそれぐらいでちょうどいいと思っていますし、いまでも脳内に何人かそういう諸先輩方がいます。脳内で勝手に動いて勝手にしゃべってくれるそういう先輩に出会えたこと、そうやって教育してくれたことは本当に感謝しているし、僕の財産だと思っています。

じつは大枠は同じだったりする

UXとかIAの世界をどんどん学んで、そして他の世界に出会うとふと思うことがあります。

「ん、これよくよくみるとUXデザインのフローと似ているな」

皆さんもよくありませんか?そういう体験。
Webマーケティングも、組織のマネジメントも、SEOやSEMも、枝葉は違うけど、本質というか大枠は似たようなフレームだったりするんですよね。

あれはたぶん、物事の本質というのは実はけっこう似たもので、そこにテクノロジーや思考フレームワークがのっかってるだけなんだろうなと思います。

逆に言えば、そういうフレームワークを理解しながらきちんと実践して、さらに教えられるような立場にある人は、たぶんみんな、若いころに「躾」を誰かに受けてきたんじゃないかなと思うんです。

みんな、根底に本質的なことを考える意識が根付いてるんだろうなと思います。
だから、なんでかわからんが全然違う業界なのにすごい人とすごい人の話は異常にかみ合ったりする(笑)

「自分はできてないオジサン」とか「まともに印刷のことを考えた資料もつくれないオバサン」とかにならないように、そしてそういう人を創らないように、僕も諸先輩方のように、多少嫌われようともちゃんと指摘できる人でありたいなと思います。

 

ま、もちろん相手を選ぶべきだし、褒めるときはしっかり褒めるのも大事なんですけどね。