笑顔を創りたいWebディレクターの日常

某事業会社勤務のWebディレクター。つまり「なかのひと」やってます。Web業界からひょんなことで専門学校の先生に。そしてまたWeb現場に戻ったWebディレクターのブログ。

教育というのは天才を育てることじゃない。

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これ読んで、

gattolibero.hatenablog.com

 

なんか違和感あるなぁと思って。

 

教育ってそういうことじゃないし、「天才」ってそういうことじゃないと思うんですよね。

 

そんなわけで、うぇぶぎょうかいのむめいディレクターのおじかんです。

 



 

 ※ちなみにぼくは宮崎駿さんの大ファンでもないし、アニメオタクでもないです。宮崎映画は人並みに好きですが、ここ数年の作品はほとんどみてないです。

 

宮崎駿さんに人を育てる能力がないという話が起点になっているんだけれども、そんなのは「名選手、名監督にあらず」ということわざ(?)が示す通りいくらでも事例があって、当たり前じゃんで終わる話。

それで終わる話なんだけど、ここで言いたいのはそこではなくて「そもそも天才なんてねらって育てられるわけないじゃん」。メッシはマラドーナに育てられたわけじゃないんだから。

メッシは誰が育てたかというと、それはアルゼンチンという国であり、バルセロナが持つ育成システムであり、その中で出会ったたくさんの人が育てたんでしょうね。たくさんの名選手が育つ土壌、文化、環境があり、そこに子供も大人も含め本当に大量な数の「人」が関わるから、その中から何十年に一人の逸材が出てくる。

メッシクラスの選手を、ねらって「コイツ」と指定して育てるなんでほぼ不可能で、天才を生み出すには無数の「そうなれなかったTRY」があってはじめて出てくるわけですから。

宮崎駿さんクラスの「後継者を育てる」なんてそもそも宮崎駿一人やそのまわりだけでできるはずがないんですよ。だから、それを持って「人を育てる力がない」というのは筋が違う。

 

また「教育」というのは立派なスキルであって、それは「天才を育てること」じゃない。100点満点で言ったら宮崎駿さんなんて既存の枠組みから完全に外れたレベルの人で、10,000点とか1億点とかそんなレベルの人なんだから、それを人を育てるスキルでなんとかしようというのがもはや無理な話。

教育というのは「30点の奴を(ほぼ)必ず70点取れるようにする」というものであって、それを超えて90点とか100点取れる奴は、それはその人が元からすごかっただけ。不世出の天才というのはねらって育てられるものではなくて、その教育を受けた人の中から偶発的に生まれる。

だから、後継者(≠後進)を育てられなかったからといって、宮崎駿さんに人を育てる能力がないと言い切るのは早計で、そしてそれをもって人間のクズというのもスジが違うと僕は思う。あと、人を育てられる人間のクズもいるし。

 

そして、本当に宮崎駿さんに人を育てる能力があるのかないのかでいえば、つまりそれはどこにラインを置くかで変わる話で、子供に折り紙を教えるぐらいはやろうと思えばできるんでしょう(知らんけど)。

人を育てるという話をするんであれば、「後継者」ではなく「後進」が全く育っていないのかどうかをみるべきで、仮にスタジオジブリで宮崎駿さんの指導を受けた人がそのあと超有名になってなくてもアニメーターやアニメ監督になって飯が食えているなら、それはじゅうぶん「人を育てた」と言えるんじゃないでしょうか。

 

また、親子のエピソードを持ってきてそこでも「人間のクズ」と書いてあるんだけど、「良い父親かどうか」なんて決められるのは子供だけが決められることであって、他人がとやかく言うことじゃない(好き嫌いは言ってもいいと思うけど)。

他人が他人を批判できるのは基本的には(民事を含む)法律に反する行為かそれに準ずる行為のみで、暴力をふるったり、殺そうとしたわけでもあるまいに、「妻がそう言ったから」という理由だけで「人間のクズ」呼ばわりはできないと思う。

 

っていうと僕が宮崎駿さんを擁護しているように見えるけど、僕が言いたいのはそういうことじゃない。実際に宮崎駿さんは人間のクズなのかもしれないし、人を育てる才能がないのかもしれないし、父親失格なのかもしれない。でも、その「言いたいこと」に対して証拠として並べた「事実」がつながってないと思うわけですよ。

だから、なんか違和感あるなと。

 

メッシも、宮崎駿も、松本人志も。
ねらって後継者なんか育てられないよ。

 

 ※リンク先のエントリーの本線が「宮崎駿さんが人格者かどうか」ではないことは理解したうえでこれを書いています。