はい、例のアレです。
PR問題(謎)です。
だがワテクシはあの議論に参加したいとか(そもそももう終わってるか)、一家言あるぜとか、そういうことではないのですね。そんなの怖すぎてもうやるまえから負けでいいです。喜んで不戦敗です。はい、よろこんで!いらっしゃいませでにーすへようこそ!(謎)
そんなわけで、うぇぶぎょうかいのむめいでぃれくたーのお時間です。
余談が過ぎましたが、さて、要するにあのPR入れる入れないというのは「読者や消費者を騙すなよ!」という、とても大雑把に論点を整理するとそこになるわけですよね。
はて。
思ったわけです。
あれ?なんで騙されちゃダメなんだっけ?
広告というかプロモーション、認知のフェーズにおいてはたしかに騙してはいけないし、法律的に言えば優良誤認とか有利誤認を招くようなものは完全にアウトなわけです。景表法のやーつですね。やーつ(謎)。
あれ?
じゃあ優良誤認とか有利誤認にならなければいいんでないの?
と、思ったわけです。
騙すことの何がいけないのか
つまりそういう話になってくるわけですが、いま一度よく考えてみるとここも危うくなってくるわけです。
だって、サプライズって騙してんじゃん。
サプライズは良くてステマはなんでだめなんじゃい、サプライズは優良誤認と違うんかい、となると、うん、「サプライズはいいけどステマはダメ。クズ」と、理屈抜きで思うわけでございますね。我ながらひどい結論だ(笑)
この両者の間に横たわるのは、「受け取った人の感情」なんですよね。要するに「終わりよければすべてよし」であるし、最初や途中のアプローチが事実と違おうがなんだろうが、最終的に相手が喜んでいれば何の問題もない(ちょっと危険な思想ですけどね)。
非常に頭の良さそうな言葉で言えばまさしくそれは「UX」なんだろうし、アホみたいにわかりやすくいうなら「みんな笑顔なら万事OK」なんでしょう。
つまりは究極的に言えば「騙すこと」も手段の1つでしかなく、試されるのはその向こうにある「提供者の意図」なのだろうと思います(ま、そんなもん一義的に判断できないから法律やガイドラインで縛るしかないんだけど)。
その昔、広告は素晴らしかった
こんなこというと多くの人に叩かれそうだけど。
でも、広告というものが人々に夢やワクワクを見せて、その商品やサービスと繋げ、この国や世界の何かを支えてきたのは紛れも無い事実だと思うわけです。
思い返せば僕が中高生の頃、FF7やクロノ・トリガーのテレビCMにどれだけ心を躍らせたことか!
※以下、TVCMの貼りつけは著作権的にどうかなと思いつつ、すべてにおいて当初の目的である宣伝というところに反しないかなと思うので貼りつけてみます。
もっと幼い頃、「ロックマンX」のCMにはもう、ドキドキしながら画面を見ていたのを覚えてる。
「あの"ロックマン"がスーパーファミコンになるとこんなことになるのか!」
と、toksato少年はもう夜も眠れぬほどにワクテカしていました(発売日に買いに走るほどです)。※後に「波動拳が打てる」という斜め上の裏技情報を入手し「なんだそれ!」とさらにワクテカすることをそのときはまだ知る由も無い。
さらにもっと遡ってスーパーマリオワールドが出た時のCMたるや!(ゲームばっかかい)
あれ、なにこれ。
・・・こんなだったっけか。
ぜんぜん覚えていないことが発覚。(正確にはいま見るとなんとなーく思い出してはいます)
僕らはまちがいなく、広告によって「手の届きそうな夢」に出会えていた
なんかゲームばっかりになってしまったけど、たとえば原付バイクのCMとかは顕著だったよなぁと思う。
「俺マジストマジ」by長瀬智也
いまみるとなんなんだそれは、と思ってしまう内容だけど、まだ普通自動車免許も取れない高校生には、「原付スクーター」というのはそれはそれはもう宝物であり、ソンゴクウの筋斗雲に近しいぐらいのものだったわけです(いまの高校生はそんなことないのかな)。
TVCMや雑誌広告をみて、高校生はそのまだ見ぬ筋斗雲に憧れて、アルバイトに励むわけですね。
当時はまだインターネットもなく、僕らがこの「夢の筋斗雲」と出会うためにはTVCMや雑誌広告、またはクチコミしかありませんでした(ちなみに僕はストマジではなく別の原付スクーターを買ってますが)。
広告によって多くの人に存在を知ってもらえるからこそ、その魅力が伝わり、たくさん買ってもらえるという構図ができる。そうすることによって、商品そのものの価格を抑えられるという効果もある。
もし広告が無ければ、一つ一つ営業マンが手売りせねばならず、そのコストは当然のように商品価格に載せられて、もっと高くなり、結果として多くの人に魅力ある商品が届かなくなるでしょうね。
いまや伝説的なRPGとなった「クロノトリガー」なんて、ナンバリングタイトルでもないし、誰かが宣伝をしなければ誰も知ることもなく、これほどまでに語り継がれる作品にはなっていなかっただろうともいます(いや、まあ、周囲が放っておかなかったはずなので、勝手に雑誌等に取り上げられていただろうとも思うけど)。
たっっっくさんの人が、TVCMや雑誌、ポスターなどの広告によって、その色に、その形に、その動きにドキドキして、発売日にお店にダッシュする。その橋渡しを広告が担っていたんだと思います。
また、その観点で言えば、インターネット以前の広告が今と同じようにだますようなものばかりだったのか、そうでなかったのかという話も実はどうでも良いんだと思います。大事なのは、そのとき、それを受け止めた人たちが幸せだったのかどうかで合って、騙す騙さないの話ではないのかなと。
たとえばトヨタのカローラのCMがこちらのサイトに残ってたんですけど。
【出演者もCM曲も完全網羅】1966年〜2014年 トヨタ・カローラ(Corolla) - 自動車CM大全
家庭に自動車が普及し始めたころからの歴史があり、内容もだんだんとスペック押しから家族や恋人とのシーンに変わっていっているのがわかります。当時の感覚なんて僕にはまったく知ることもできないけど、自分の家に車が来る、家族で出かけられる、という夢にワクワクして、当時の人たちはこのCMを見ていたんじゃないかなぁ。
それは、素晴らしいことだなと思うんですよね。
僕はインターネットが好きで、素晴らしいと思っているんだけど、世界中の顔も知らない人と繋がり、誰かが発信したものが誰かの笑顔につながる、それが好きなんです。僕が作った何かが、もしかすると忙しいOLさんのひと時の楽しさにつながるかもしれない、笑顔を創れるかもしれない、僕はインターネットのそんなところが好きなんですが、そういう見方で言えば、昔のTVCMだって何ら本質は変わりません。だからいま、「あの当時の広告もきっと素晴らしかったんだ」と、思っているんですね。
そんなに広告を毛嫌いしなくてもいいじゃない
僕だってステルスマーケティングも、人を欺いて利益を得ようとする広告も大嫌いです。そんなこと考える広告主や代理店はくたばればいいと思います。インターネットや世の中にゴミしか生まないそんな輩は追放されて欲しい。
でも、その「広告」によって僕らの生活が潤ったのも、夢やドキドキが見られたのもまた一つの事実だと思うんです。
広告だけじゃないけど、でも広告が無ければ企業は消費者に、僕らに「こんな素敵なものがあるよ!」と伝えることすらできない。一生懸命、僕らの生活を豊かにしようとがんばっている企業やそこに人がいるのに、そんな悲しいことは無いじゃないですか。
本来で言えば広告は決して敵じゃない。
間違っているのはその広告という仕組みや手法を悪しき方法で使う、そのマインドなんだと思います。
だから、イチ消費者としても、イチ広告主としても断固としてそこに対してはNOと言い続けていくべきだとは思うんだけど、でも、一方で僕ら消費者が「広告だ!」と言う時点で過剰に避けていくというのも、悲しすぎると思うんですよね。
良いものだってきっとあるし、そしてJリーグのサポーターが選手やクラブを育てるのと同じように、受け取る僕らが是と非をはっきり表明して、広告と言うものを育てていくという面もあるんじゃないかなと。
だから、ときには広告に騙されたっていいじゃん。
それよりも、受けた結果としてダメだった広告を批判し、良かった広告を評価していくことで、またドキドキする広告に溢れるようになったらいいなと思います。
思いっきり理想論ですけどね。