笑顔を創りたいWebディレクターの日常

某事業会社勤務のWebディレクター。つまり「なかのひと」やってます。Web業界からひょんなことで専門学校の先生に。そしてまたWeb現場に戻ったWebディレクターのブログ。

【書評】「天才になりたい」 著:山里亮太(南海キャンディーズ)

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天才になりたい (朝日新書) 天才になりたい (朝日新書)
(2006/11)
山里 亮太

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ご存知、南海キャンディーズ山ちゃんの自伝です。

笑いのテクニックや具体的な話が載っているわけではありません。

山ちゃんがお笑いを目指すところから、挫折の連続、M-1準優勝にいたるまで、そして2度目の出場で最下位やその後の話しと、山ちゃんの当時の内面的な話、スタンスの話に終始します。だから、笑いを媒介としたクリエイティブやモノづくりにそのまま生きてくる内容ではないです。

 

でも、凄く考えさせられました。

いや、だからこそ考えさせられた。



ともかく、山ちゃんはそこかしこで突っ走る。

NSCに入学する前、した時から「とにかく変わったことを」「変な人と呼ばれるために」と、行動を繰り返します。しかし、彼の一文にこうある。

 

僕は奇抜なことをしようと思ってする、一方、天才は、したことが奇抜ととらえられる。ここは埋められない大きな差である。

 

これは、後に語ることであって当時はわからなかった。

だから、変なことをやり続けて、しかし当然、それは偽りの姿であり、人工的に創られたものだからうけない。バレる。面白くない。そうして山ちゃんはどんどんと自信をなくし、卑屈になり、相方にあたり相方のダメな所を叩くことでバランスを取るスタンスに・・・。

 

ただ、彼はここからが凄い。

こういう風に何度も同じようなミスを繰り返し、落ち込むのですが、彼はその都度立ち上がるのです。その立ち上がり方が凄い。

 

たいして自信がないものでも、周りからポロッと出た誉め言葉などで小さな自信を張っていってもらったり、些細なことをそこに結びつけたりすることによって、結構立派な張りぼてってつくってくれるものなんです。僕はそれを「張りぼての自信」と考えた。

 

これまでの過去、いくつか言われたような大小問わず褒め言葉をかき集め、「自分はイケてる」という自信を身にまとうわけです。もちろん、これは偽りのものですから褒められたものではありません。けれども、そこには彼なりの自己評価があって、落ち込んだらなかなか立ち直れない。壁に向かっていけない。だから、自分を奮い立たせるために、「はりぼての自信」というエネルギー源を蓄えるわけです。

 

つまり、とことん現実を客観視した結果なんですね。

 

話は落ち込んで立ち上がって落ち込んで立ち上がってということを繰り返しながら、しかしその都度確実に何かを得て成長していく話になっています。彼は、その都度、それまでの成功体験を「張りぼての自信」と呼んでいたけれども、少なくとも途中からは確実に、探究心と行動力に裏打ちされた「本物の自信」と呼んでよいものではないかと、僕は思いました。それほどに、張りぼての自信を蓄えにしながら、逆に退路を断ち、ともかく恥ずかしい想いを厭わずに突っ込み、壊れては修正し、また壊しを繰り返していました。最初から最後まで

 

「現実を受け入れる」

「状況を整理する」

「次の手を打つ」

 

を繰り返しているわけです。

ああ、これビジネスやマーケティングの話と一緒じゃんと思ったわけです。

冷静に市場を分析し、笑いを分析し、自己の得手不得手を分析し、そして現場にアウトプット(漫才)を投じる。滑ったり、滑らなかったり。それをまた分解して、分析して、再構築して、またアウトプットする。彼は「必死だった」「それしかなかったから」「僕は怠け者だから」と事あるごとに書いているのですが、どう考えても、その作業は怠け者にはできない。根底にある、魂みたいなものを感じました。そして、その魂の先にある、とてつもなく心地良い開き直り。

 

僕は「生み出す力」はあまりないと思う。

 

そして、自分のことを「面白い人の横にいる人」と定義付けます。

自分の長所を、能力を、バリュープロポジションをはっきりと見つけるわけですね。

現実を見据え、自身が弱いということすら受け入れ、「ではどうすれば良いのか?」という、つまり彼はPDCAサイクルを回し続けて今に至るわけですね。面白くないはずがない。

 

そして、山ちゃんはもう一つ、凄く大事なことを語っています。

これは、モノづくり、デザイン、クリエイティブは常に意識しなければいけないことだと思います。

 

そのときのネタは、僕は自分でやっていて楽しいものではなかった。そのときはそれが当たり前だと思っていた、楽しいはずがない。仕事なんだから、と。というのもその当時のネタはこだわりのない、公式を考え、そこにそのとき流行っている単語を当てはめるというものだったのだ。クリエイティブとは程遠い作業だった。

 

客観視は大事ですが当時の山ちゃんにはそれしか無かったのですね。

そこから、彼は悩みに悩み、自分を否定していた当時の千鳥と笑い飯に話を聞きにいくわけですね。「どうしたら、あんな面白いネタが創れるのか」と。ぶっとんだ人ですね(笑)同世代の完全なライバルにそれ聞いちゃうとか。そして返ってきた答え。

 

「客席で自分達が観たとして、面白いと思うネタをやってるだけ」

 

山ちゃんはこれに気づいて、自分の好きな笑いを追求しだします。

その過程でしずちゃんを相方に誘い、しずちゃんの横で嘆くあの独特のツッコミを確立するのですね。

 

これはクリエイティブ、デザイン、ものづくりにおいて凄く凄く大事なことだと思います。僕みたいに「ユーザが!ユーザが!」とか言ってると「何でもユーザの言うとおりに創れば良いのか」と言い出す人がいたり、逆にその通りユーザになんでも聞けば良いと思っている人もいます。でも、そんなわけないんですよね。美味しいラーメンは客が考えるものではなくラーメン屋のオヤジ(じゃなくてもいいけどw)が考える事。客は、それを味わうだけ。客が美味しいラーメンを知ってるわけでもないし、言いなりになって素晴らしいラーメンができるわけじゃない。

 

自分が良いと思えないものは創るなよってことであり、逆説的に言えば「こういうものが素晴らしい!」というものを持ってない人にはモノづくりはできないんですよね。企画にせよデザインにせよ客観視は絶対に必要です。独りよがりの物創っても意味ないし。でも、客観視だけでは絶対に良いものはできない。ビジョンがない、熱意がない、命がない。主観を常に持ちつつ、客観に照らし合わせることで良いものはできると僕は思います。

 

それは、単純に「主観と客観両方あればいいんでしょ」ということではなく、そもそも完全に別物として扱う訳ではないはずで、主観の地続きに客観があると思うし、客観の地続きに主観があると思います。要するにラーメン屋のオヤジが「このラーメンはうまい!」というのはもちろん自分の味覚もあるはずですが、いくつもの店を訪れ、お客様の顔を、反応をみるという「客観」の上に成り立つものでないと意味が無いと思います。ものづくりにせよ、Webサービスにせよ、そこにはたしかに思いつきはあると思いますが、その思いつきはどこから出るかというと、自分の生活、自分が観た・聞いた・触った経験、観察から「こういうものがあるといい!」と”思いつく”わけですよね。

 

山ちゃんも、同じ事をしています。

自分が面白いと思うものを打ち出し、でもそれは当然独りよがりではなくいくつもの笑いを、観客を、舞台を経験して、そこから自分で見つけ出し、それをまた舞台で試し、そこで観察、検証をしてまた再構築する。

 

クリエイティブ、デザイナー、企画屋、マーケッター、モノづくり、コトづくり携わる全ての人に必要なことだと思います。

 

日々、生活の中から観察し、吸収し、多くの「客観」を取り込み、

その中から自分の創りたいものという「主観」を創り上げること。

そして、それをアウトプットすること。

 

凄く大事なことだと思います。

改めてそれに気づかせてくれたこの本には、いや、山里亮太さんには感謝したいです。

 

そして、今まで「この人は言葉の天才だ」と思っていました。

そんなわけないんですよね。いきなりなんでもできたわけじゃない。

ひたむきに、一生懸命現実と戦ったからこそ。

 

「言葉の天才、山里亮太」改め「本物の魂を持った、山里亮太」と、

僕の中で尊敬する偉人の一人としてこれからも応援していきます。

 

拍手コメントいただきました。